玄洋社記念館とは

玄洋社記念館とは

玄洋社について


玄洋社は明治11年秋、向陽社として創立されました。
箱田六輔、進藤喜平太、頭山満、平岡浩太郎ら若き情熱に充ち活気に溢れた精鋭たちの胆力と知力が渾然一体となって発足した向陽社が、12年12月玄洋社と改名されたのです。
玄洋社は「皇室を敬戴すべし」「本国を愛重すべし」「人民の権 利を固守すべし」の三憲則を基幹とし、自由民権の普及に献身、憲法の新設、国会の開設、次いで祖国の国力の伸張に奔走する一方、屈辱的外交条約の破棄、アジア主義に基くアジア民族の自決独立の援助に勇往邁進、その貢献力は明治末期には既に東南アジア各国に有名となり、各国の政治家が続々と玄洋社を訪れています。
中でも中国革命に於ける玄洋社の存在は大きく、以後第二次世界大戦終了直後まで日中和平工作を継続していた政治結社は玄洋社を除いて他にありません。
以上の概歴からしても郷土福岡の近代史を語るとき、玄洋社は第一に取り上げられねばなりません。

玄洋社について

勢揃いした玄洋社の首脳部
前列右より: 末永純一郎(末永節の令兄)、杉山茂丸、進藤喜平太、内田良五郎(平岡浩太郎の令兄)、頭山満、福本日南、月成功太郎
後列右より: 児玉音松、月成勲、的野半助、内田良平、大原義剛、古賀壮兵衛、武井忍助
明治40年3月23日東京・芝の丸木写真館で撮影

玄洋社記念館の紹介


  • 郷土の歴史を具さに学び、正しく理解し、そしてまた遍く伝えることは、その郷土に生れ、育ったものの責務だと存じます。
    わが福岡の場合、焦点を明治、大正の近代史にしぼるとき、まず第一に大きくクローズアップされるのは玄洋社のことであります。
    その創立の経緯と波乱に富んだ活動の足どりは、近代福岡を語るとき、特筆大書すべき屈指の論点であると信じます。
  • 玄洋社が創立されたのは明治12年12月ですが、すでにその時点において革新的な彩りを帯び自由民権を固く守らねばならぬと強調し、われわれこそ新しい後代を切り拓くべき開拓者だぞという気概と勇気を堂々と誇示しているところに、いかにも玄洋社健児ならではの矜持が察知されて興趣がそそられます。
  • 創立以来、玄洋社がたどってきた道は、近代日本の発展躍進の軌跡さながらの曲線を如実に描き出したわけですが、国内では祖国日本の真の独立という大目標を目指して身命をなげうち、ときに震天動地の事件を巻き起こしたこともありました。
    また国外にあっては、アジアの解放という壮大な構想を胸に描き続けながら、中華民国の辛亥革命支援をはじめとして数々の奔放多彩な活動を展開して、天下の耳目を聳動させたこともしばしばでした。
  • この玄洋社が輩出した人材がまたすこぶる多彩かつ豊富で、頭山満、箱田六輔、平岡浩太郎、進藤喜平太、杉山茂丸、内田良五郎、来島恒喜、香月恕経、奈良原到、内田良平など枚挙にいとまがありません。
    さらに玄洋社の流れをくんで大成した逸材も山座円次郎、広田弘毅、中野正剛、緒方竹虎など目白押しです。
  • このような玄洋社の巨大な足跡をふり返り、その史実を詳細に記録、史実を裏付け、立証する資料を細大もらさず収集して、これを遍く公開するとともに後世に伝えることは極めて重要なことであります。
    そこで、最後の玄洋社社長(第十代)となった進藤一馬先生(元 衆議院議員、前福岡市長、 平成4年11月89歳で没)が奔走され創設されたのが当、玄洋社記念館です。
    玄洋社記念館は、資料の収集、展示、研究会、講演会の開催、先覚の顕彰・ 慰霊祭の実施、広報紙発行などの事業を行っています。

玄洋社小史


玄洋社について

玄洋社記念館の展示室

【1】幕末の福岡

筑前福岡藩は、公武一和主義を以て終始一貫し、逸早く外国の近代化に追いつくための開国論を掲げ、国内での相争いで国力を消耗することを極力避けるべく努めました。
その結果は第一次長州征伐を中止させ、筑前の仲介で薩摩、長州の三藩連合を計り、幕政体制を改め天皇中心の政体を作るため大政奉還を打ち出したのです。
だが幕府の誤解と藩内俗論党による弾圧は乙丑の獄となり真 の忠臣加藤司書をはじめ有為の藩士多数を失いました。
ところが薩長の倒幕主義による新政府は筑前藩を佐幕藩と見做して、これまた弾圧の挙に出て、徹底した悲劇の筑前藩となりました。

【2】高場乱の興志塾

この矛盾した行為に対して最も敏感に事態を眺めていた一人に女傑高場乱(おさむ)が居ります。
常に男装帯刀し、牛に乗った女丈夫は亀井学派の俊才でした。
家業は眼科医を営みながら、興志塾を開き儒学を教えておりました。
中でも明治元年3月14日に発せられた五ヶ條の御誓文は熟読精釈され門弟たちに教育したので、のちに「福岡の変」や「萩の乱」に加わった青年たちに与えた影響は大きく、彼らはこの五ヶ條の御誓文と新政府の行う政策の矛盾に対し厥起して行くのです。

【3】矯志・強忍・堅志の三社結成

この矛盾と征韓論の嵐が吹き荒ぶ中で佐賀に乱が起こり、世相はただならぬ空気が溢ぎりはじめます。
この時に当り、高場門下の武部小四郎、越智彦四郎は土佐の板垣退助のもとに走り、彼の主宰する愛国社の結成に賛同、筑前地区にもこの組織の拡大を計ろうとした矢先、板垣は再度参議として新政府へ戻るのです。
この板垣の裏切り行為は武部、越智に大きな打撃を与え、最早、言論などによる行政矛盾の改革は無駄、あるものは武力蜂起のみとして武部は矯志社、越智は強忍社、箱田六輔は堅志社をそれぞれ結成、時来りなば厥起を決し、恩師の高場先生に迷惑のかからぬように興志塾をそれぞれ全員が離れて行くのです。

【4】箱田、進藤、頭山ら山口の獄へ

佐賀の乱に続いて明治9年10月には熊本の神風連、秋月の厥起、萩の蜂起と続きます。
だが武部、越智らは隠忍自重しますが堅志社の箱田、進藤、頭山たちは萩の前原一誠に呼応して決起を申し合せ、準備中に事が発覚し機先を制せられて全員が検束され山口の獄に投ぜられます。
しかし、後にこれが幸いすることになるのです。

【5】『福岡の変』徒労に帰す

明治10年2月、鹿児島に西郷隆盛が遂に厥起、西南戦争が勃発します。
これに呼応して福岡では武部、越智ら矯志社と強忍社の全員が「維新のやり直し」を合言葉に敢然と挙兵をします。
しかし何分にも少数のため多勢に加えて精鋭な火器を持つ政府軍には到底勝つことが出来ず、大半は戦死、武部、越智らは捕えられ、首謀者として斬罪となるのです。

【6】全国組織愛国社結成へ

西南戦争が終った明治10年9月、山口の獄に投ぜられていた箱田六輔を除いた進藤、頭山ら全員は許され福岡に帰ります。
一同は県庁の了解のもとに海の中道で学塾「開墾社」を開き勉 学に励むも経営困難から約一年程で閉鎖することになり全員が自宅に戻ります。
この頃箱田も免ぜられて福岡に帰って参りますが、感ずるところがあって自宅に引き籠ったまま表に出ようとはしませんでした。
ところが明治11年大久保が暗殺されたことを知った頭山は土佐の板垣を訪れ、板垣の主宰する立志社と提携して再興愛国社の設立に全力を挙げることを約して帰福、筑前共愛会の設立や近県に同様な組織作りに奔走するのです。

【7】向陽社、向陽義塾生まれる

全国的な活動と並行して明治11年秋、箱田をかつぎ出し向陽社を開設したが、注目すべきは焦眉の政治問題だけに止まらず、次代を背負う青少年のために向陽義塾を開いたことです。
教授連は漢学で高場乱、亀井紀十郎、阪牧周太郎。
法律に奥村貞、清原強之助、箱田三吉。
英語にペレー(英国)、アッキンソン(米国)と錚々たる顔触れで当時全国的に見て、これほどレベルの高い教授陣は他に類を見なかったと見られています。

【8】向陽社から玄洋社となる

この頃西南戦争で西郷軍の残党となった平岡浩太郎も帰福し向陽社に身を置くのですが、向陽とは陽即ち天皇に向かうので良くないと執拗に改名を迫り、高場乱も心配するところとなり遂に明治12年12月玄洋社と改名したのです。

【9】自由民権運動を活発化

改名を主張した平岡浩太郎が初代の社長となりますが、僅か四ヶ月で二代目進藤喜平太に社長を譲り、この時、規約で社長の任期を六ヶ月と定めた模様。
したがって三代目阿部武三郎も六ヶ月で、四代目の箱田六輔に至り再改正して再選留任を防げなくなります。
この間に国会開設、憲法制定、自由民権を強く打ち出し、活発な活動を展開して行くのです。

【10】明道館、一到館が生まれる

玄洋社は青年教育の重大性を認め向陽義塾を開設、次いで名も藤雲館と改め旧藩主に経営をゆだねるも学制新設でのちの中学修猷館と移行されるのです。
義塾を手放すと同時に柔道の明道館、剣道の一到館を設け、文武両道をわきまえる青年の養成に力をそそぎます。
後に明道館から広田弘毅、真藤慎太郎、安川第五郎をはじめとする第一級の人物が、又一到館からは緒方竹虎など優秀な人材を多数輩出しています。

【11】来島恒喜、条約を粉砕

明治14年10月国会開設の大詔が渙発されましたので、以後は天下の耳目が屈辱的条約の改正に集中されて行きます。
このような空気が溢ぎりつつあるにも拘らず明治21年黒田内閣の大隈重信外相は井上馨前外相の方針をそのまま引き継ぎ屈辱的条約を表明したので、全国一斉に猛反発の火の手が挙がります。
この時に当たり玄洋社の来島恒喜は最早、議論の無駄を悟り、武断あるのみと明治22年10月18日霞ヶ関外務省の門前で大隈外相の馬車に爆弾を投げつけ、外相の片足もろとも条約案を吹っ飛ばし、自らもその場で堂々と壮烈な自刃を遂げました。

【12】国会開設・総選挙

第一回の総選挙は明治23年、福岡県では玄洋社が議席の半数以上を占めますが、明治24年11月の第二回帝国議会で海軍国防予算の拡大案をめぐって国会が混乱、遂に国会が解散となります。
時の総理松方正義は頭山満に如何なる手段を講じても政府案を通過させたい旨を申し入れるのです。
頭山もこの決意に動かされ了承して全国の友好結社に檄を飛ばし第二回総選挙を迎えるのです。
これが有名な選挙干渉です。
九州では一応成功し、福岡県などは80%の議席を玄洋社で占めるのですが、全国的には僅かの差で政府派が破れ、悪評も各地につのり松方総理は弱気となり、再選挙を避け、総辞職の道を選ぶのです。

玄洋社について

大正13年秋、頭山翁(前列右)と孫文大統領(前列中央)最後の会談=神 戸のホテルで

【13】アジア主義を展開

この松方の態度に愛想をつかした頭山満は以後玄洋社を国会の場から全て手を引かせ、独自の立場からアジア主義に基づくアジア解放運動に積極的に邁進して行くことになるのです。

【14】金玉均の援助から日清戦争へ

玄洋社の眼は先づ韓国に向けられ、日本に亡命して来た朝鮮独立党の金玉均に逸早く救援の手をさしのべます。
続いて明治27年には朝鮮半島南部で蜂起した東学党に対し内田良平、大原義剛らが天佑侠を組織して支援し、大活躍を展開し ますが、これが日清戦争へと展開して行くのです。

【15】日露戦争始まる

日清戦争で勝利をおさめたのも束の間で、日ならずして独・仏・露の三国干渉がはじまり屈辱的な結末を迎えるばかりではなく、露国は全面的に満州から朝鮮に向けて侵出をはじめ満州には既に大軍を投入し、旅順は永久要塞化を着々と進め日本の生命線は非常に危険に晒されることとなりますので遂に全国各地で露国撃つべしの声は高まります。
中でも玄洋社はその急先鋒に立ち、頭山満は親露派の元老伊藤博文に強く対露開戦を迫り宣戦に踏み切ったのです。

【16】満州義軍、赫々の戦果

開戦と同時に、玄洋社では少壮社員十数名を選抜、後備役の花田仲之助少佐を指揮官に迎えて満州義軍を編成し、現地に派遣します。
同軍は現地人、数千名を動員編入して軍団を組織しますが、義軍の士気はすこぶる旺盛で軍紀は厳正で数々の奇襲作戦は特に成功、露軍の側背を脅かして赫々たる戦果を挙げるのです。

【17】辛亥革命に援助

日露戦争で日本がヨーロッパの大国ロシアを破ったことによってアジアの全民族に独立運動の気運が勃興、中国大陸で「興漢滅満」を主唱して厥起した孫文は明治31年初めて来日、それからは日本を革命の根拠地をして奔放多彩な運動を展開します。
これが結実して明治44年10月の辛亥革命となり、やっと混迷していた中国に輝かしい黎明が訪れるのですが、その孫文の他黄興等多くの革命家たちが、初めて来日したときから力強く励まし暖かい援助の手をさしのべていたのが玄洋社であり、頭山満、進藤喜平太、平岡浩太郎、内田良平、末永節、安川敬一郎らで、特に頭山満は名実共に抜んでた存在でした。
大正2年来日した孫文は福岡の玄洋社を訪れ、玄洋社墓地に詣でて大陸で散華した同志英霊の冥福を祈った程でした。

玄洋社について

玄洋社の世話になった孫文がお礼に進藤喜平太に送った書

【18】各国の革命家たちが続々と日本に亡命

中国の志士、汪兆銘は頭山満を「立雲は慈父の如し」と讃えたが、その頭山はアジア解放を叫んで迫害された多くの亡命者たちに温かい庇護の手を伸ばし数々の美談を生み出しました。
亡命者の範囲はフィリピン、ベトナム、インドからアフガニスタン、トルコにも拡がり、果てはロシアやポーランドからも頭山を慕って来日したものもあり、特にインドの志士ビハリボースを救援した義挙はセンセーショナルな波紋を巻き起こして巨人頭山満の名声は一段と高くなりました。

【19】日中友好を重んじた玄洋社

中学時代玄洋社で学んだ広田弘毅、或いは先輩の薫陶を受けた中野正剛、緒方竹虎らはいづれものちの官界、政界で大活躍をするのですが、共通した思想はアジア主義に基づく日中友好であったことを忘れてはなりません。
広田弘毅は日中経済共同体の確立と戦争回避のための重臣会議に於ける活躍。
中野正剛は軍部の台頭に警鐘を鳴らしシベリヤ出兵を糾弾、蒋介石とは日支攻守同盟や経済同盟締結の下地工作を成功させています。
また緒方竹虎は日中戦争の平和裡解決に奔走するのですが、いづれも頑迷な軍部や周囲の反対によって成功こそ見なかったのですが、決して歴史から消すことの出来ない事実であります。